アヒルノセカイ(7)

2009/11/05 Thu 10:16

夕方までかかる予定だった公務が、思いもよらず早く終わったので
帰り道を少し遠回りしてもらうことにした。

とある幼稚園で、有名な絵本作家のイベントが行われている。
あいつはゲストとして招かれ、絵本の朗読をすることになった。

・・・そう、当初の予定であった秋をテーマにした童謡の演奏は
都合により中止にさせた。


あいつの思惑通り、絵本作家への敬意と園児たちへの配慮を汲んだ
ファッションは好評だった。
朗読では小さい子が目を輝かせてその話に聞き入り、
絵本作家もそのパフォーマンスに感動してくれたとのことだ。

2日前の予定演目の変更に、俺もコン内官も満足気に頷いた。

イベント終了後は簡単に園内を見学して帰るだけだと聞いていたから
迎えにきたのに、俺の姿を確認したチェ尚宮や数人の付き人たちは
近づくなり、申し訳なさそうに頭を下げる。


「妃宮様がぜひ・・・と言うので」


一斉に庭に向けられた視線を追うように自分もそれに続くと
園内の砂場とビニールプールの周りには
ジャージ姿で園児らと遊ぶあいつの姿が見えた。


「!!!」


「園児たちが妃殿下と“遊びたい”と取り囲んでしまい、
妃殿下が“少しだけいいですか?”とおっしゃいまして・・・」


「ご遠慮するように申し上げたのですが、園児たちに囲まれていた手前、
妃宮様も断ったらかわいそうだと訴えられました」


恭しく頭を下げ続ける園長とチェ尚宮に頭を上げるように指示した俺は
もう一度あいつの姿を見る。

借りたジャージを膝まで上げて、砂のトンネルを一緒に作ったり、
誘われるように手を引かれて、一緒に水鉄砲でじゃれあったり。

さすが芸術家だけあって、その砂の上にできた作品がやたら立派だ。
あいつはあっという間に園児たちのスターになり、
秋の日差しの中でどこまでも輝き続ける。


おもちゃが浮かぶ簡易ビニールプールには
バスルームにあるものと似たアヒルが浮かんでいる。

そういえばアヒルは水浴びが大好きだ。
日光浴は勿論、土いじりも好きだという。


「まさに、アヒルだな・・・」


俺がそう呟くと、コン内官が不思議そうに俺を見た。



「ひでんかさまー、こうたいていでんかさまが!」


賢そうな園児が俺の姿を発見すると、
ジャージ妃と園児たちが一斉にこちらを振り向いた。

園児たちと遊ぶのはともかく、その姿はないだろうと
小言のひとつくらい言おうかと思ったが、
スターを囲む穢れのない多数の視線が俺を刺していた。


「ひでんかさま、かってにあそんだから、おこられちゃうの?」

「こうたいていでんかさま、おねがいしたのは ぼくたちです」

「だから ひでんかさまを おこらないで」


想定外に登場した俺にしまったという顔で立ち尽くすあいつの周りで
園児たちが口々にあいつをかばう。

「おねがいします」と力強く叫ばれる声に戸惑う。
まだ何の言葉も発していないのに、俺が責められている気分になるのは
どういうことだ?


「みんな、大丈夫よ」


体に引っ付いている園児たちの頭を撫でながら、
あいつは懸命にその声を止める。

俺はゆっくりとその輪に近づき、園児たちの前にかがんだ。
ジャージ妃の小さな味方たちには緊張が見られる。


「妃殿下様を怒らないよ。砂遊びは楽しかった?」


そう言って微笑む俺に、彼らはパーッと目を輝かせた。


「お砂でお城を作ったの!」

「トンネルも作ったよ!」

「さっきはね、絵本も読んでくれたの」

「絵もいっぱい描いてくれた!」

「楽しかったねー」


あいつをかばうようにバリケードを組んでいた園児たちが
バラバラと散り始め、俺の周りを取り囲んだ。
園長や関係者たちが、その動きを止めようと近づいたが、
それを片手で制する。


「じゃあ、今度は僕も仲間に入れて遊んでくれるかな?」


「あそぶー!!!」


キャッキャッと歓声をあげて飛び跳ねる子供たちを見て、
ようやくあいつは微笑むと、俺に視線を合わせて来た。


「登場するだけで、いきなり俺は悪役キャラか?」


プリンススマイルはそのままにあいつに小声でささやく。
決まり悪く俯くその頬は土が付き、手足も既に泥だけだ。


「はーい、みんな。妃殿下がお帰りになるお時間です。
ちゃんとご挨拶はできますね」


手を鳴らしながら園長が近づくと園児たちは
ちょこちょこと動いて整列をし始める。


「ありがとうーございましたっ」


砂場の手下たちと同じようにあいつは同じように頭を下げると
俺にも小さく「ありがとう」と呟いた。



あいつが着替えを済ませ、門まで歩いていると、
何やら背後に視線を感じた。
2人で振り返ると等間隔で柱に隠れる園児たちがこちらを見ている。

俺たちが小さく手を振ると、彼らも同じように手を振った。


車を走らせ、しばらくするとあいつが珍しく
しおらしく頭を下げた。


「スケジュールにない勝手なことをしてごめんなさい。
園児たちに誘われたとは言え、他に方法はあったと、思う・・・」


想定外に俺に叱られなかったことが却って、気まずいらしく、
あいつがしゅんとうなだれる。

俺が言いたいことはきっと理解してるのだろう。
だから、今日はあれこれ言うのはやめた。

あいつの頭をポンと叩く。
それに呼応するかのようにあいつの顔がゆっくりと上がり、
そのまま小さく頷いた。

イベントで聞いた絵本作家の話にいたく感動をしたこと、
朗読のこと、そして園児たちと一緒に遊んだこと。


横で話を聞きながら、やっぱりこいつは俺にとっては勿論、
宮にとっても必要なのだと思った。


ちょっとくらい楽器の演奏が不得意でも。
ちょっとくらい音程の外れた歌唱力でも。


「大活躍だったな、妃宮様。けれど、ジャージはないだろ?」


得意げに砂の城の構造について話を続けるあいつに
俺は意地悪そうに笑ってみせた。






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アヒルノセカイ(6)

2009/11/04 Wed 10:39

会食を終えて東宮に戻る途中、聞き覚えのあるおぞましい音が聞こえてきた。
横にいるコン内官と顔を見合わせて首を横に振る。
懸命にフォローの言葉を並べるコン内官にとてつもなく同情した。

これ以上、この音を聞かせるのもしのびなかったので
コン内官には途中で下がってもらった。
一生懸命なだけに頭ごなしに注意をするのもどうかとは思う。
しかしながら、この騒音をあと数分聞いていたら、
頭がクラクラしてしまいそうだ。

あいつが入宮する時に、成績表を見せてもらったことがある。
平凡な内容で、細かいことは覚えていないが、
ひとつだけ記憶に残っていることがある。
それは“音楽”の成績だ。


「・・・笛の練習、熱心だな]


「あ、シンくん、おかえりなさい!」


あいつは俺に気がつくと悪魔の笛をテーブルに置き、
パタパタと駆け寄ってきた。
頬にキスを受けながら、何とも複雑な気持ちになる。


「もう遅い、練習は明日にしろ」


「先生の言うとおりにしているつもりなんだけど、
どうしても上手にできなくて・・・」


「演奏を披露するのはいつだ?」


「あさってよ。幼稚園の子どもたちに喜んでもらいたいのだけど」


遠い目で首を傾げるこいつに、かける言葉が見つからない。
一番喜んでもらえるのはこの演奏を中止にすることだと、
チェ尚宮に明日提案をしてみよう。

俺の思惑に気がつく訳もなく、あいつはジャケトの袖を押さえたまま
衣服にクンクンと鼻を寄せた。


「・・・中華。エビチリがあったでしょ?」


「何だよ」


「今日の会食、中華だったでしょ?」


「そうだけど・・・」


「大正解!!いいなー、エビチリ〜」


誇らしげにあいつは2本の指を広げると、いそいそと
笛をしまいはじめた。


「お風呂の準備するけど・・・一緒に入る?」


ケースを抱きしめながら、あいつが上目遣いに俺を見た。
せわしなくて、どこまで予見不測なんだ。


「ああ、すぐに行くよ」


零れた笑みを見られないように、俺はあいつを軽く抱きしめた後、
クローゼットへ足を進めた。


*******


頬にパシャパシャと化粧水をあてながら、あいつはハミングしていた。
当然のことながら、何の曲かを当てることはかなりの難問だ。

乾燥する季節だからと、シートマスクを貼るか否かを
迷っているあいつの背後から俺は声をかけた。


「インはフランスに行くことにしたよ」


「え?」


「“忘れ物”はそこにあるから」


あいつは両頬を手のひらで覆ったまま振り返る。
そして数秒後に「ふーん」と嬉しそうに頷いた。


「そういうことだよな?」


「・・・どうだろう?本当のことは本人にしかわからないけどね」


あいつの考えるところの“忘れ物”に気がついた俺は
ふと、その答えをすぐに探したあいつの過去が気になった。


「で、おまえにもそういう経験はあったのか?」


手にしていた本をサイドテーブルに置くと、
放ってしまった言葉に俺は戸惑った。
何となくまずい展開になりそうな気がする。


「中学生の頃かな・・・近所に好きな男の子がいたんだけどね、
毎日、一緒に帰ってたら、クラスメイトに冷やかされて、
思わず“冗談じゃない!”って叫んじゃったの。
それから、きまずくなって別々に帰るようになって・・・
ある日、その男の子は引っ越しちゃったんだ。挨拶もしないで」


中学生にはありがちなよくある話といえばそうだが、
あいつからこんな話を聞くのは初めてだ。
しかも、その情景を思い出している時の顔がやけに艶っぽい。
話を振ったのは自分なのに、それが少し悔しかった。


「謝りたかったの。その子は私がひどいことを言ったのに
反論することもなく、何も言わなかったから。
それから、他に好きな人もできたけれど、どこかでずっと気になってた・・・
そしたらね、高1の時、たまたまサッカー部の交流試合で来ていたその子に
偶然再会したの!
意識してしまった私に、彼は“久しぶり”って笑ってくれたんだ。
そしたら、あんなに言えなかったのに、“あの時はごめんね”って
あっさり言えたんだよね。“好きだったのに恥ずかしくて”ってまで」


思い出話なんだと聞いていたけれど、最後の言葉に俺の手に力が加わった。
高校の時って、その時は既に俺が近くにいただろうが。
・・・とは言っても、まだ許婚のことも知らないどころか、出会ってもいない。
それでも俺の知る場所で、男にそんなことを打ち明けていたとは
どうもおもしろくない。


「・・・で、どうしたんだよ」


馬鹿げていることは承知の上で呟いた俺の意志など
まるでわかっていない様子であいつは続ける。


「“なんだ、その時に言えよ!”って彼はケラケラ笑い出したんだよね。
だから私も“だよねー”って同じように笑ったわ。
その後、マネージャーの子がやって来て、彼が“先に行ってて”って
優しそうな顔で合図をしたの。その子、今の彼女だった」


懐かしい話をしているうちにノリノリになってきたあいつは
不満そうな俺の座るベッドに楽しそうにやって来て、隣に並ぶ。


「・・・ショックだったか?」


「ううん、全然!それどころか、清々しい気持ちになって・・・
それから彼のことは今の今まで思い出したりもしなかったよ」


あいつはそう言うと毛布に半身を入れ、枕を抱えた。
そこまで生き生きと思い出を語られたら、何も言うことはできない。


「・・・じゃあ、それからは前向きに恋愛を?」


「そうねー、前向きと言えば前向き。後ろ向きと言えば後ろ向き・・・」


「何だよ、それ・・・。
それに、さっきから聞いてれば気になる男がいたのに
他に好きな男ができたとか、おまえ、どこまで惚れっぽいんだ?
それに後ろ向きって、まだ未練がましくそいつのことを想っていたとか・・・」


考えるよりも先に、声に出してしまった。
ベラベラと紡ぎだされる俺の言葉にあいつの口がへの字に変わる。


「惚れっぽいって何よ。中学生の話でしょ。
それに未練がましいって、その子のことはすっきり忘れたって言ったじゃない」


「じゃあ、何だよ。高校に入ってから後ろ向きの恋愛だなんて、
相手のいる男でも好きにな・・・」


そこまで言葉にして、俺は口をつぐんだ。
あいつの目が悲しそうに、それでも責めるように
じっと俺を見ていたからだ。


「あ・・・」


気がついた時は既に遅かった。
あいつは目を伏せるとさっきまでの雄弁が嘘のように沈黙を続ける。


「・・・意地悪なのは知ってたけど、掘り返さないでよ」


「すまない、そんなつもりでは・・・」


俯いたあいつの顔に手をかけるものの、
それはもの凄い勢いで拒絶される。

こいつに出会ってから、俺は感情のコントロールが下手になった。
そしてその対象はいつもこいつに降りかかる。


「でも・・・最終的には前向きになれたんだもん。
だから、今、私はここにい・・・」


卑怯だったかも知れない。
それでも関係なかった。

俺は俯くあいつを、半ば強引に抱きしめた。

あいつは何も言わず、笑いもせず、それでも泣きも怒りもせず
俺の腕におさまっていてくれた。
そうして抱きしめていたら、自分自身のことも思い出してきた。

忘れ物など自分にはないと思っていたけれど、
とんでもない数のそれが自分にはある。

ユルに自分の気持ちを正直に話さなかったこと。
父親と向き合おうとしなかったこと。
インの気持ちに気がつかないふりをしていたこと。
カン・ミンギの件もそうだ。

取り戻したもの、まだ取り戻せないでいるもの、
とにかく今思いつくものだけでも両手ほどはある。

一番、手痛かったのはこの温もりを失いそうになったことだ。


「そばにいろ」


再び、あいつを引き寄せ俺は言った。

忘れ物に気がついたあの日の言葉を。


あいつがゆっくりと視線をあげる。


「俺は面倒くさい男だ。だから、どこにも行くな、一人にするな」


俺の目をじっと見た後、“ずるいよ”とあいつが恨めしそうに呟いた。


ああ、俺は面倒くさい上にずるい男だ。
その代わり、二度とおまえに、後ろ向きな思いなんかさせるかよ。


自分の未熟さ、そしておまえが持っている世界を全部包み込むように。


俺はその存在から笑顔が戻るまでずっと抱きしめ続けた。







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アヒルノセカイ(5)

2009/11/03 Tue 09:51


ファンの合図で窓の外を見ると、中庭に女子学生が集まっていた。
その中心には多くの花束に埋もれていたカン・ミンギが見える。
ただでさえモテる男なのに、司法試験に一発合格ともなれば
周りは放っておかないだろう。

彼が将来、弁護士として宮にやってくるかどうかは置いておいて、
俺としては彼の存在がとても複雑に思えてきた。


「シンがいなかったらうちの大学の顔だったな」


「有限実行、立派だよ」


横で話すインとファンの声を聞きながら、その姿を見つめる。


カン・ミンギは他の女子学生と同じように
あいつをからかったり、励ましたり、ごく普通に接する。
そして、時には俺を挑発するような言動までしてくるのだ。

その顔を見る度に意味もなく腹が立ったりもしたものだが、
最近はその理由に気がつき始めたりもした。
それでも、そんなことには気がつきたくないから
こうして視線をそらす。


「明日から1週間、学園祭準備期間で休講だろ?どこか行く?」


「そうだなあ、ギョンのところにでも突撃するか?」


インとファンはテキストをしまうと、優雅な休日の話をしはじめた。
ぱっと見たところインの表情に変化はなく、
だからこそ、そのテリトリーには入ってはいけないような気がした。
今の自分ができることは彼の言葉を受け止めることだけなのが
情けないと思いながらもそれが自分のやり方だと納得することにした。


前に進めないほどの忘れ物、それは一体何なのか。
俺とインがわからないもの。


「なあ、忘れ物で前に進めなかったことがあるか?」


言葉足らずの俺の言葉を。

この日ばかりは、インもファンも理解することはできなかった。


*******


午後から本格的に稽古の仕上げに入るというあいつは、
昼すぎには宮に戻っていた。

いつも待ち合わせをしている噴水に、いないとわかっても目を遣ってしまう。
不在を確認してから門へ進む癖に気がついた時は自分に呆れてしまった。


学園祭が迫り、大学のあらゆる場所で様々な準備が始まっていた。
広いスペースで何かを仕上げているグループや、
ダンスの練習をしている者たちが見える。
音楽室からはバンドの演奏が聞こえてきた。

あいつのリクエストを思い出してみたところで、どうすることもできない。
そして、多分、あいつもそれを承知しているとことがまた辛かったりする。

少し冷えた風を感じ、並木道に続く道へと曲がると、
正面に見えた男が足を止めた。
勿論、同じように俺も足を止める。


「こんにちは、殿下。昨日はメールをいただきありがとうございます」


「いえ。合格、おめでとうございます」


学生たちの楽しそうな笑い声や浮かれた情景に似つかわない調子で
俺とカン・ミンギは向き合っていた。

彼は俺の出方を伺っているようだったので、あえて無言を通してみた。
その様子を見て、彼は面白そうに笑う。


「相変わらずですね、殿下。そんなに警戒しないでください」


「いえ、警戒などしていないですよ」


「ここでは歳相応の学生らしく過ごしているのに、
何故俺にだけそんな態度なんですか?」


「あなたは先輩ですから」


どんな返答をしても彼は興味深そうに笑ってみせた。

この男は賢いと思う。
勉強ができるとか、難しい試験を突破できるとか、そういうことではなく
他を圧倒させる何かがある。
そのような意味では弁護士は適任なのかも知れない。


「チェギョンとは仲良くやっていますか?」


突然、彼がそう言った。

先ほどまでとは違う笑顔で。


「ええ、もちろん」


俺がさらりとそう答えると、彼の表情が柔らかく変化した。
そして大きく伸びをすると、キャッキャッと騒ぐ女子学生に手を振る。


「チェギョンと出会わなかったら、俺はどんな人生だったんだろうな」


顔を戻した彼が呟いた。
その言葉に無意識に視線が強くなる。


「宮が嫌いだった。なくなればいいとさえ思った。
それなのに今はその文化を守りたいと思っているんだ。不思議だよ」


宮の担当弁護士だった父親との関係は少しはまともになったらしい。
父親に傷つけられ、宮のしきたりにうんざりさせられたという経験は
俺と彼くらいしか味わったことがないものだろう。


「殿下、気にしているみたいだから言わせてもらうけど・・・」


俺の視線に反応した彼が、降参したかのように笑った。
何を言い出すのかと彼の隠された思いをさぐるよう、
無意識に力が入る。


「俺、チェギョンのことは好きだけど、
出会ってから今まで、そういう目で見たことはない」


柔らかいその声が逆に胸に刺さった。
どんなに冷静でいても、見透かされている自分の心。

そして、きっと彼は気がついている。
俺がこんなに意識をするのは、
彼があいつに気があると思っているからではない。
あいつの方が好きになりそうなタイプだからだ。


「チェギョンが幸せでいることが俺の願いだ。
だから殿下がそう言ってくれると、嬉しいんです」


遠くで彼を呼ぶ声が聞こえた。
その声に彼は片手をあげて応える。


「殿下とチェギョンが作りあげる宮を楽しみにしています」


彼はそう言うと会釈をして、俺の横を通り過ぎた。
反射的に俺は声を出す。


「・・・忘れ物で前に進めなかったことは?」


彼はその言葉に足を止めゆっくりと振り向いた。
そして数秒考えて、合点がいく表情へと変化させる。


「あるよ。好きだった女に何年もその想いを伝え忘れていた。
その間、本気の恋愛なんてできなかったな」


何の前触れもなく言った俺の質問に彼はさらりと答えてみせた。
不覚にもその言葉にはっとする。


「それが原因だったなんて、気がつくのはだいぶ経ってからだ。
でも気がついたら早いぜ?」


彼はそれ以上俺には何も聞かず、そう答えると、前に進み出した。


悔しいけれど、カン・ミンギを認めざるを得ない。
彼は俺にないものを持っている。
だから、不安になるのだ。


小さくなる彼の背中を見つめながら、ポケットの携帯を取り出した。
短縮ボタンを押すと、2コール目で電話は繋がった。


「イン、俺だ。おまえの忘れ物がわかったよ」


電話の向こうのインは面食らったことだろう。
俺らしくない行為だとは思う。


だけど、仕方がないじゃないか。
おせっかいで、常に他人のことに興味を示す妻と一緒にいるんだ。
影響だってされるだろう?


俺はインにこの休みの間に、ヒョリンが滞在するフランスへ発つよう
アドバイスをした。






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アヒルノセカイ(4)

2009/11/02 Mon 10:41


東宮に戻ってくると、あいつはソファにもたれながら
ウトウトと本を読んでいた。
いや、読んでいた・・・というのは間違いだ。
あいつは本を広げて、完全に眠りに落ちていた。


「風邪をひくぞ。ベッドで休め」


「・・・ん、おかえりなさい」


俺の声に反応したあいつが、眠気まなこで頬にキスをする。
今日は遅くなるから先に眠るように言っておいたのだが
きっとここで勉強をしながら待っていてくれたのだろう。
触れた髪がうっすらと冷えているのが気になった。


「髪はきちんと乾かせと言っているだろう。
乾かしたら先に寝ろよ」


「うん、そうするね」


あいつはぼんやりと返事をすると、本を閉じて寝室に向った。
俺はその様子を見届けてからバスルームへ移動する。


バスルームはラズベリーの香りに包まれていた。
俺には少し甘すぎる香り。
浴槽の端にはクマの絵が描かれたボトルが置いてあった。
あいつと出会わなかったら目にすることがなかったものだろう。

クマの鼻を指で軽く突いて深呼吸をする。
静かだ。

湯気の向こうで「あのね、あのね」と
他愛のない日常を報告するあいつの声が聞こえることもなく、
何となく伸ばした腕の先に柔らかい温もりを認めることはできない。


「・・・確かに夢中なのかもな」


俺は指先に触れた湯面に浮かぶアヒルを手に取ると
いつもあいつがしているようにネジを引いた。

相変わらず間抜けな音でゆっくりとアヒルは進んでいく。
後ろを向いてしまったあひるを正面に向け、思わず苦笑いをする。

バスルームに無駄なものなど置きたくなくなった。
それなのにある日突然、湯船にこれが浮かんでいた。
シンプルな空間にやけに目立つ黄色のそれにひどく違和感を覚えた。

ギョンが留学前にわざわざあいつにプレゼントをしたらしく、
その日以来、あいつは喜んでバスルームに招き入れたのだ。


アヒル。


ギョンの言うように、まるであいつそのもののような気がする。


「皇太弟がこんな姿で入浴していると知ったら、
国民は驚くに違いない」


俺はそう笑うと、もう一度ネジを引っ張った。


*******


寝室に戻るとあいつが半身を起こして本を開いていた。
今度はちゃんと読んでいる。


「寝ないのか?」


「うん・・・キリのいいところまで行ったらね」


出席する昼食会でこの本の作家と話をするらしい。
小難しい内容を専門とする作家の著書を
とりあえず1冊でも読もうとする努力はうかがえる。


「恋愛小説とかミステリーとかなら得意分野なんだけど」


本を閉じながらあいつはそう言うと、大きく伸びをした。


「恋愛小説ねぇ・・・」


「この前、ガンヒョンに借りて読んだ話、超おもしろかったの!
アイドルと大学生の切ないラブストーリーでね・・・」


あいつはうっとりとした表情で、女性の理想がいっぱい詰まった
ありえない恋愛ストーリーの話をする。
俺から言わせてもらえばツッコミどころ満載の内容だったが、
話を遮ったらこいつの機嫌が悪くなるそうなので、適当に頷いていた。


「んもー。シンくん全然興味ないでしょ?
女ゴコロを知るために少しは勉強した方がいいのに」


「知ってどうするんだよ」


「どうするって・・・ほら、私が怒っている時はその理由とか
悩みがあった時にそのフレーズを思い出すとか・・・」


ボソボソと呟くあいつの頭を、笑いながら軽く撫でてやる。
何だか可笑しくなって俺が笑い出すと、
あいつは腑に落ちない顔で俺を見上げた。


ふと。
その時思い出した。

辛そうに話したインの言葉を。


― 誰かと向き合ったり本気になった時が怖いんだ。
だから保険をかけたくなる ―


その言葉の答えは、こいつの言う恋愛小説に載っているのだろうか。


「どうしたの?」


ぼんやりとした俺をあいつが不思議そうに見ていた。

ゆっくりと身を伏せると、あいつも同じように横に並ぶ。
天井を見ながら、こいつに、その話をするものか黙って考えていた。
その名前を聞いたら余計な思いをさせるのではないかという気もあったし、
答えがわからないことも少し恥ずかしかった。

それでも俺は口を開いた。


「インのことだけど・・・」


あいつは俺の話を何も言わず、最後まで聞いてくれた。
聞き終わると身を寄せて、軽く腕を絡めてくる。
その行動に視線を移した俺にあいつはぽつりと言った。


「インは忘れ物をしちゃったんだね」


「忘れ物?」


「そう。だから、前に進めないんだよ」


あいつの言っていることがわからずに瞬きする俺に
「イイ男が2人も揃って、そんなことに気がつかないなんて」
とあいつは可笑しそうに笑った。


*******


「妃宮様、ご要望通りのメニューです」


「わあ、ありがとう。帰ったら料理長さんにお礼の手紙書くね」


弁当箱を受け取ったあいつが鼻歌交じりにそれを鞄にしまった。


「食べたいメニューでも?」


「ううん。低カロリーで高たんぱく質なものを」


「何故?」


「ダイエットよ!ガンヒョンの作ったお菓子が美味しくて
たくさん食べたら、ちょっと太っちゃったみたい」


口を尖らせてそれを申し出たあいつの体を見回してみる。
どのあたりが太ったのかなんて、さっぱりわからない。


「そうか?」


「そうよー。体重計が壊れているのかと思ったよ」


あいつはそう言うと女官たちに頬の肉をさすって見せて
何やらチェックをさせていた。
夫である俺が今のままでいいと言うのに何故、
すぐにそんなことを言うのだろう。
そして、そうなのかと思った時には「もう辞めた」と
なかったことにするのも理解不能だ。


「妃宮様、本日は演奏会の打ち合わせと練習がありますので、
講義が終わられたら、早めのお戻りをお願いいたします」


「はぁ・・・気が重い」


あいつはチェ尚宮の言葉に肩を落としながら、呟いた。

数日後に行う園遊会で楽器の演奏を披露することになった彼女は
いつものようにその笛使いに四苦八苦しているようだ。

俺が難なくこなせることを常に戸惑うあいつだったが、
あいつが簡単にわかるようなことはどうもわからないらしい。

すぐにでも“忘れ物”について深い話を聞いてみたいものだったけれど
俺もあいつも多忙のようで、今日は厳しいだろう。


「シンくん、そろそろ行こう」


考え事をしていた俺をあいつが見上げた。

「ああ」と返事をしながら見下ろした彼女の手首に
誕生日に贈ったブレスレッドが光っている。

何だか今日はそれが妙に嬉しかった。






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アヒルノセカイ(3)

2009/11/01 Sun 11:06

確かにそのノートを見た時は驚いた。
こいつは時にしてとんでもない才能を発揮する。
いや、才能というのは間違っているかも知れない。
しきたりに縛られたこの宮の中で、必要とされるのはこれが所以だろう。


「この日は映画祭で活躍された方々を心からお祝いをしたいんです。
なので、私はなるべく落ち着いた色のスーツで・・・
それでも芸術の華やかさは出したいのでここにお花を」


「なるほど、じゃあ、このイベントは?」


「絵本作家の先生のイベントは幼稚園で行われます。
なので、園児たちが緊張しないような柔らかい色合いのワンピースと、
ヘアスタイルもこんな感じで・・・」


女王陛下である姉さんはあいつのノートを見ながらなるほどと頷く。
連日の公務で着用する衣装について、
あいつが姉さんに相談を持ちかけたのだ。
元々デザインや服飾には興味があるとは言え、その考えは実に見事だった。


「チェギョン、あなた成長したわね。
誰のための式典か、そして何故、その場所に私たちが招待をされるのか・・・
そういったものを全部理解して、そして相手を一番に思えること。
感心したわ」


「・・・一応、衣装部で用意できそうなものを選んだんですが
大丈夫でしょうか」


「ええ、完璧よ。さすがデザイナー志望だけあるわね」


「はい、ありがとうございます」


自分のことより相手のことを考える、こいつらしい提案だと思った。
品位がないとか自覚がないとか注意をすることが多かったけれど
きっと俺がこいつを選んだ理由はこういうところなんだと思う。


「公務時の衣装については今後、衣装部とチェギョンに任せるわ」


「本当ですか!?」


嬉しそうに俺の顔を見上げるこいつを見ていたら
自然に顔が緩んでいた。
勿論、それは姉さんに見過ごされる訳はなく、意味ありげな視線を送られる。


「あ、チェギョン。先ほど弁護士の方から連絡があってね。
カン・ミンギさん、司法試験に合格したらしいわよ」


「本当ですか!すごいっ!!」


他の男の話題に目を輝かせて喜ぶあいつに少しばかりカチンと来る。
しかし、これが姉さんに仕掛けられた罠だと気がついた時は既に遅かった。
表情が曇った俺を見た仕掛け人は笑いを堪えるように俯いている。


「シンくん、先輩すごいね。
現役の学生が合格することって難しいんでしょ?」


「ああ、相当な努力がないと無理だろうな。
けれど、司法試験に合格したからといってすぐに弁護士になれる訳ではない。
司法修習生を経て、それから最終試験・・・」


「そうかー、やっぱり先輩はすごいんだね。
シンくんが皇帝として宮に立つ時にちょうどいいんじゃない?」


「新任弁護士に宮を任せられるかっ!!」


興奮して目を輝かせるこいつについ言葉を荒げてしまった。
不思議そうに見上げるこいつの肩の向こうでは
腹部を押さえて笑う姉さんの姿が確認できる。

しまった、またネタを増やしてしまった。
いつだってクールに振舞うことが自然にできていたのに
こいつが絡むとあっという間に破綻するのだ。


「お祝いのメールをしたいんだけど・・・」


「何だと!?」


「いいじゃない、シン。これから何かとお世話になる人よ?」


これ以上、話をしても腹が立つだけだ。
俺は諦めたように首を振り、あいつに告げた。


「わかった。俺からメールする」


極力、クールにトーンを変えたつもりだったのに
やっぱり姉さんの笑いは止まることがなかった。


*******


翌日のスピーチ原稿に目を通していると、携帯電話が鳴った。
発信者はイン。
意外な名前を目にした俺はすぐさま電話を取る。


「昼間の話、中途半端だから気になっているかと思って」


インはしっかりとした声でそう言った。
誰よりも人の気持ちに敏感で、誰よりも気配りができる、
インはそういう男だった。
勿論、俺はあの発言を忘れていた訳もなく、その言葉に頷くと、
手にしていた原稿を置いた。


「何となく付き合ってもいいかな、っていう子はいたんだ」


「じゃあ、何故・・・」


「もしも、この先ヒョリンが1人だったら・・・
そう思うと、俺がついていなきゃいけないって思う」


「そんな感情がなくとも?」


「ああ。彼女が幸せな結婚でもしてくれない限り、そんな気がする」


電話の向こうでインが自嘲的に笑う。
今更、俺の前でインが強がりを言うことは考えにくく、
長年のヒョリンの思いは本当に過去の思い出になっているのだろう。
だから、インの言うところが理解できず、その答えを考える。


「好きでもない女の一生を支えると?」


「そういう言い方するなよ。
恋愛感情がないにしろヒョリンは友達には変わりない」


「友達なら何故こだわるんだよ」


「・・・何でだろうな」


インのその答えに俺は口をつぐむ。
いつだってインはしっかりと自分の道を進んできた男だ。
考えなしに行動をしたり、言葉を発することなどしない。
そんなインがこんな曖昧な返事をした。
しかも、わざわざ、俺に電話をしてまで、だ。


「イン?」


「誰かと向き合ったり、本気になった時が怖いんだ。
だから保険をかけたくなる。
でも非人道的なことをしたくない。だから誰とも付き合えない」


一途で誠実なインがそんなことを考えているなんて知らなかった。
その言葉に俺が黙るとインの笑い声が聞こえた。


「俺らしくないか?
・・・シンやギョンを見ているとすごく羨ましいよ」


「無理に誰かを好きにならなくてもいいだろう」


「ああ勿論。ただ・・・こんな自分は変えたいと思う」


何年も一緒にいたけれど、こんな心の内を話したことは
初めてだった気がする。
あいつと出会う前の俺は恋愛なんてさほど興味はなかったし、
他人のことはどうでもよかったんだ。
そんな俺とは、こんな話をしたいと思う訳もなく、
今日が初めてだということには妙に納得がいく。


「本当にヒョリンはもういいのか?」


「ああ、初恋の思い出にしかすぎない」


インが心を開いて電話をくれたにも関わらず、
俺は適した答えを導けずにいた。
気休めな言葉やありきたりのアドバイスなんて
絶対に言いたくはない。


「いいよ、シン。答えが欲しかった訳じゃない。
ただ、誰かに聞いてもらいたかっただけだ」


「・・・そうか」


「そういえば、チェギョンがおまえのことをいろいろ聞いてきたぞ?」


「あいつが?」


「30分だけでも学園祭に参加することを説得するには
どうしたらいいかって」


「・・・ったく」


「かわいいな」


「え?」


「シンとお似合いだよ」


インはそう笑うと電話を切った。
携帯のディスプレイを見ながら、インの言葉を振り返る。


「トントン。シンくん、コン内官が呼んでるよー」


執務室の扉から、あいつが顔を出した。
おだんご頭にボールペンが刺さっている。
久しぶりに見たその奇妙なヘアスタイルに思わず噴き出した。


「ああ。今行く」


何故、俺が笑っているのか、あいつはまったくわからない様子で
首を傾げると、スカートを翻し、戻って行った。


「お似合い・・・か」


俺は椅子からゆっくり離れると、原稿を持って部屋を出た。







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